2011年05月02日
もう1つのシーミー
沖縄、特に本島では4月から5月のGWにかけて「シーミー」で親族一同がご先祖様達が眠っているお墓の前で食事しながら談笑したりと「楽しい」時間を過ごす行事の時期。
父方のほうは4月の半ばに終った。
そして母方のほうは先日「お寺」に行ってきてシーミーを済ませる。
母方は「母一人子一人」で仏壇は以前ヤンバルは瀬嵩にあった。
そしてお墓も瀬嵩の集落から少し離れた山の中にあり、回りには小さなお墓ががってひっそりと家族5名でシーミーをしたもんだ。
奥の方からイノシシや何か得体の知れない何か怖いものが飛び出してきそうなひっそりとした場所。
(絶対に陽が落ちたらそこに1人では行けないんだよなぁ・・・・・)
数年前にお寺に仏壇とお墓を購入しそれ以後はここ首里にあるお寺でシーミーやお盆そしてお正月にてぃ~うさぁ~している。
祖母は与那原から「ヤンバル船」に乗って当時は「久志村」だったこの集落「瀬嵩」に移り住み旅館を営んでいたそうだ。
母が小さい頃は「タクシー」をチャーターして那覇の街まで買い物をしていた程の「余裕」があったようだが、戦争で旅館が消失し
その後「共同売店」を営みこの地で「最後」を迎えた。
祖母のこの言葉が今、私の会社経営の考え方の源泉の1つになっている。
「自分は損しても他人には絶対に損はさせるな」と。
生前、祖母はいろんな方々にお金を貸していたらしいが残念ながら「全額返済」をしたものは誰一人といなかったと母から聞く。
祖母が亡くなり数名の方が「いくばか」のお金を返しに来たと聞くが残りの方々は「知らないふり」をしていたとも聞いている。
でも祖母は恐らくそんな方々を恨むどころか「自分はここに住まわせてもらっている。恩返しだ」という気概があったに違いない。
祖母の遺影が飾られている仏壇を観ながら
「2011年、僕の会社も人さまの役に立てる様な仕事ができますように」とウートートーした。
そして
ヒラウコウが消えた頃、「もう1つのシーミー」が終わった。
父方のほうは4月の半ばに終った。
そして母方のほうは先日「お寺」に行ってきてシーミーを済ませる。
母方は「母一人子一人」で仏壇は以前ヤンバルは瀬嵩にあった。
そしてお墓も瀬嵩の集落から少し離れた山の中にあり、回りには小さなお墓ががってひっそりと家族5名でシーミーをしたもんだ。
奥の方からイノシシや何か得体の知れない何か怖いものが飛び出してきそうなひっそりとした場所。
(絶対に陽が落ちたらそこに1人では行けないんだよなぁ・・・・・)
数年前にお寺に仏壇とお墓を購入しそれ以後はここ首里にあるお寺でシーミーやお盆そしてお正月にてぃ~うさぁ~している。
祖母は与那原から「ヤンバル船」に乗って当時は「久志村」だったこの集落「瀬嵩」に移り住み旅館を営んでいたそうだ。
母が小さい頃は「タクシー」をチャーターして那覇の街まで買い物をしていた程の「余裕」があったようだが、戦争で旅館が消失し
その後「共同売店」を営みこの地で「最後」を迎えた。
祖母のこの言葉が今、私の会社経営の考え方の源泉の1つになっている。
「自分は損しても他人には絶対に損はさせるな」と。
生前、祖母はいろんな方々にお金を貸していたらしいが残念ながら「全額返済」をしたものは誰一人といなかったと母から聞く。
祖母が亡くなり数名の方が「いくばか」のお金を返しに来たと聞くが残りの方々は「知らないふり」をしていたとも聞いている。
でも祖母は恐らくそんな方々を恨むどころか「自分はここに住まわせてもらっている。恩返しだ」という気概があったに違いない。
祖母の遺影が飾られている仏壇を観ながら
「2011年、僕の会社も人さまの役に立てる様な仕事ができますように」とウートートーした。
そして
ヒラウコウが消えた頃、「もう1つのシーミー」が終わった。
Posted by ウチナーンチュ at 07:46│Comments(0)
│沖縄の文化